太鼓館特別研究

新居浜太鼓台の進歩と調和 新居浜市のHP

 

 

 

新居浜市HP「太鼓台の歴史概説」の記事から「新居浜太鼓台の起源は平安時代まで遡る」が削除されていた

 

 

 

●書籍「新居浜市の歴史」の記事、特に「新居浜太鼓台の起源は平安時代まで遡る説」が全然顔をのぞかせない記載となっていたことに気を良くした西園寺穂純は、こうなったら新居浜市のHPの記載もこれに倣って欲しいものだと改めてHPの該当部分を訪問しました。すると、何と、該当部分が既に削除されているではありませんか。下表左欄は新居浜市のHP過去の記述、同右欄は同HP本稿上梓時点での記述であります。

 

 

●第一項末尾にあった「その起源は鎌倉時代、あるいは平安時代まで遡るといわれています。」の記述が見事に消えていました。誠に喜ばしい限りであります。該当部分下線は西園寺穂純が施したものです。

 

 

 

 

(左欄)

 

(右欄)

 

令和元年1129日新規上梓、小HP「西園寺穂純の太鼓のことなら太鼓館」太鼓館特別研究=新居浜太鼓台の進歩と調和(2)の記事中

 

 

令和4年1116日現在、新居浜市のホームページの記載事項

 

新居浜市のホームページを、「トップページ→組織で探す→運輸観光課→新居浜太鼓祭り→太鼓台の歴史概説」の順に繰っていく

(011129新規上梓)
(020815
体裁変更)

 

新居浜市のホームページを、「トップページ→組織で探す→経済部→観光物産課→新居浜太鼓祭りバナー→太鼓台の歴史概説」の順に繰っていく

更新日:2019823日更新

 

●太鼓台の起こりがいつであるかはっきり答えられる資料は、現在のところ確認されておりません。地域の伝承によると、祭礼の時、神輿に供奉する山車の一種で信仰を対象にした神輿渡御の際、その列に参加して厳かに供奉し、豊年の秋を感謝して氏神に奉納していたもので、その起源は鎌倉時代、あるいは平安時代まで遡るといわれています。

 

 

●太鼓台が記録の上で出てくるのは、江戸時代後期、文政年間(18181830)のことで、その頃は「神輿太鼓」と書かれていることが多かったのですが、時代を経るにつれて「太鼓台」あるいは「太鼓」とされることが多くなってきました。

 

 

●太鼓台の全国的な分布を見ると、瀬戸内海沿岸の港町、漁師町、あるいは大きな川の輸送拠点に多く見られます。これは、瀬戸内海の海上交通が古くから盛んで、物資の流通、文化の交流が活発に行われたことによるものと考えられています。

 

 

●幕末から明治時代初期の太鼓台は、現在の子ども太鼓台くらいの大きさしかなく、飾り幕は薄めで天幕も現在のような膨らみを持ちませんでした。しかし、別子銅山の開坑により産業が発展し、地域経済が発達するにつれて太鼓台を所有する複数地域の対抗意識も高まり、明治中期以降から急速に大型化し、明治時代中期から昭和時代初期の太鼓台は、現在の太鼓台と同じくらいの大きさになり、飾り幕は縫いの発達とともに豪華に、また天幕も膨らみを持ったものを付けるようになりました。

 

 

●しかし、太鼓台の飾りが豪華になり、大きさも大型化するということは、その建設費用や太鼓台を担ぐためのかき夫のパワーが多く必要になります。新居浜太鼓台がこれらの問題を克服し、数多くの改良を重ねて現在に至っていることは、太鼓台が地域の「財力」と「腕力」の2方向から発展したといえるようです。

 

 

●現在では、瀬戸内海沿岸にある数多い太鼓台のなかでも、150人余りの男衆で差し上げられ、澄んだ秋空に舞う新居浜太鼓台の姿は、その豪華絢爛さ、勇壮華麗なことから「男祭り」の異名をもち、毎年約20万人の観衆を酔わせて止まない魅力ある祭りとして、全国的にも知られるようになりました。

 

 

 

■太鼓台の起こりがいつであるかはっきり答えられる資料は、現在のところ確認されておりません。地域の伝承によると、祭礼の時、神輿に供奉する山車の一種で信仰を対象にした神輿渡御の際、その列に参加して厳かに供奉し、豊年の秋を感謝して氏神に奉納していたものです。

 

 

■太鼓台が記録の上で出てくるのは、江戸時代後期、文政年間(18181830)のことで、その頃は「神輿太鼓」と書かれていることが多かったのですが、時代を経るにつれて「太鼓台」あるいは「太鼓」とされることが多くなってきました。

 

 

■太鼓台の全国的な分布を見ると、瀬戸内海沿岸の港町、漁師町、あるいは大きな川の輸送拠点に多く見られます。これは、瀬戸内海の海上交通が古くから盛んで、物資の流通、文化の交流が活発に行われたことによるものと考えられています。

 

 

■幕末から明治時代初期の太鼓台は、現在の子ども太鼓台くらいの大きさしかなく、飾り幕は薄めで天幕も現在のような膨らみを持ちませんでした。しかし、別子銅山の開坑により産業が発展し、地域経済が発達するにつれて太鼓台を所有する複数地域の対抗意識も高まり、明治中期以降から急速に大型化し、明治時代中期から昭和時代初期の太鼓台は、現在の太鼓台と同じくらいの大きさになり、飾り幕は縫いの発達とともに豪華に、また天幕も膨らみを持ったものを付けるようになりました。

 

 

■しかし、太鼓台の飾りが豪華になり、大きさも大型化するということは、その建設費用や太鼓台を担ぐためのかき夫のパワーが多く必要になります。新居浜太鼓台がこれらの問題を克服し、数多くの改良を重ねて現在に至っていることは、太鼓台が地域の「財力」と「腕力」の二方向から発展したといえるようです。

 

 

■現在では、瀬戸内海沿岸にある数多い太鼓台のなかでも、150人余りの男衆で差し上げられ、澄んだ秋空に舞う新居浜太鼓台の姿は、その豪華絢爛さ、勇壮華麗なことから「男祭り」の異名をもち、毎年約20万人の観衆を酔わせて止まない魅力ある祭りとして、全国的にも知られるようになりました。

 

※左欄の記事及び右欄の記載事項とも、新居浜市のホームページ(愛媛県新居浜市一宮町一丁目5番1号)から引用したものです。

 

 

 

●しかし、令和4年1116日現在の新居浜市HPの該当ページには「更新日:2019823日更新」の文字があります。西暦2019年は令和元年ですから、令和元年8月に既に削除更新されていたのですか?左欄の(011129新規上梓)とは令和元年1129日の意味であります。そうすると、西園寺穂純は既に削除されている事項に対して延々と真剣に意見を述べていたことになってしまいます。新規上梓の際には削除されていなかったと思うのだがなァ…。あ〜あ情けない! お笑い草だヨォ〜!

 

●西園寺穂純が細々と小HPを更新し続けていたのは、新居浜市の公式的文書類から「新居浜太鼓台の起源は平安時代まで遡る説」の記述を無くして頂きたかったからであります。経過はどうあれ、目的は達成しました。マァ良かった。

 

 (041116新規上梓)


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5050

(完)

 

 

 

 

 

 

 

 

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