新居浜太鼓台の起源は明らかではない。新居浜で、祭りの屋台に関する記録が現れるのは、江戸時代中期以降のことである。最初は「芸だんじり」や「御船(おふね)だんじり」と呼ばれる、車のついた「ひきだんじり」が登場する。「芸だんじり」は、舞台があって中でこども踊りをさせていたようだが、幕府や西条藩の華美禁制によってしだいに姿を消していく。
江戸時代後期になると「だんじり」と入れ替わるかたちで「神輿太鼓(みこしだいこ)」が登場してくる。この「神輿太鼓」が現在の太鼓台の原型と考えられるが、時代が降りるにしたがって「太鼓台」とか「太鼓」とよばれることが多くなってくる。「神輿太鼓」とよばれていたころのものが、現在の太鼓台と同じ形をしていたものか、西条の「みこし(神輿太鼓)」のように木製の車輪が付いていたものであったかはわかっていない。しかし、現在のものよりずっと小さく、高欄(こうらん)には、今日のような高欄幕ではなく、もたれ蒲団(ぶとん)を掛けていたことは、当時の記録からうかがえる。
ちょうど同じころ、別子銅山では違った形の屋台が登場している。広瀬宰平(ひろせさいへい)の叔父で、別子銅山支配人であった北脇治右衛門(きたわきじえもん)が編纂した『銅山略式志(どうざんりゃくしきし)』(天保12年(1841))に、関西風の「だんじり」が担がれているようすが描かれている。別子銅山と大阪の間では、人や物の行き来が盛んだったので、この「だんじり」も関西から直接伝わってきたものと考えられる。この「だんじり」は、形こそ新居浜太鼓台と大きく異なるが、飾り付けられた豪華な刺繍幕(ししゅうまく)は、その後の新居浜太鼓台に受け継がれていったと思われる。
幕末から明治時代の初めころのようすになると、太鼓台の形や大きさは、かなりはっきりしてくる。その頃の太鼓台が、新居浜から広島県内(呉市豊町(ゆたかまち)大長(おおちょう)、三原市幸崎(さいざき)能地(のうじ)に伝わり、今も残されているからである。大きさは、現在の子供太鼓台くらいで、布団締めや飾り幕は一枚ものである。また、天幕は丸いふくらみをもっておらず、脇棒はかなり短かかったようである。
それが明治時代の中期以降になると、大きさも形も一気に現在の太鼓台に近くなり、飾り幕も豪華になる。ただ、大正時代の写真をみると、現在の太鼓台とほとんど同じものがある一方、上幕が幅の狭い一枚もので、高欄幕との間から中の提灯がはっきり見えているものがあるなど、細かな違いはみられる。それが昭和期を通じて徐々に統一され、今日みる形となった。こうしてみると、新居浜太鼓台は、別子銅山や多喜浜塩田の近代化とともに発展してきたものといえるようである。
(久葉 裕可)
参考文献
・『新居浜太鼓台』(新居浜市立図書館、1990年)
■写真 新居浜太鼓台(山根グランド)
■写真 別子銅山の「だんじり」『銅山略式志』天保12年(1841)より(田邊一郎氏所蔵)
■写真 西条の神輿太鼓 『伊曾乃祭礼細見図』天保6年(1835)より(東京国立博物館所蔵)
■写真 能地楽車 幕末から明治初期の新居浜太鼓台と考えられる『新居浜太鼓台』より
■写真 大正時代の太鼓台(宇高八幡神社)『新居浜太鼓台』より
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