天保12年(1841年)頃、別子に「だんじり」が出ていた ■令和3年9月に西園寺穂純は、森田玲著「日本だんじり文化論」−摂河泉・瀬戸内の祭で生まれた神賑(かみにぎわい)の民族誌−(発行所株式会社創元社、2021年6月20日第一版第一刷発行、ISBN978-422-23043-6)という書籍を見ることが出来ました。 ■この書籍はA5版 222ページで、サブタイトルの通り、摂津・河内・和泉と瀬戸内海沿岸に存在する「だんじり」について、氏の詳細な研究成果が豊富な写真類と共に検証されています。太鼓台の記述はほとんどありません。 ■ところが、その巻頭口絵に「1−16 九月九日山神宮祭祀『銅山略式志』(個人蔵)」という絵が出ていて、その写真とともに、「大坂の住友家が開発した別子銅山の祭には大坂の地車と瓜二つの祭具が出た。地車の後部には飾幕が見え、吹流(ふきながし)と幟(のぼり)を掲げた人たちが付き従う。〈天保12年/1841頃〉というコメントが付いていました。 ■更に本文中には、同じ写真について「吹流と幟を掲げて地車の後に付き従う。地車の舞台には三方と瓶子が見え、後部には飾幕が巡らされる。」との記述がありました。 ■西園寺穂純がこの写真を見分するに、石積みをして整地したと思われる山中の道で「だんじり」が行進する祭礼行列が描かれています。2台の地車のうち、前方(左側)の地車には先提灯10張り、地車本体、吹き流し2流れ、幟旗2棹が、後方(右側)の地車には先提灯10張り、地車本体、吹き流し1流れ、幟旗1棹が描かれていますがその後方は絵が切れています。 ■「だんじり」は2台とも大阪の岸和田などで見られる大小2層の屋根を有する形式で、屋根はこげ茶色、下部は朱色の欄干が本体をぐるりと取り巻いています。大屋根の下は空間ですが、書籍の記述どおりに三方と瓶子が見え、小屋根の下は幕で隠されていますが、黒地に何らかの模様が描かれているようです。現在の太鼓台の水引幕のような雰囲気を感じます。幟旗は全部で3棹描かれていますが、どれも地は赤色(緋羅紗か?)で、文字は「大山積大□□」上4文字は判読出来ましたが、下2文字は確定しづらいところ「大山積大明神」ではないかと判断しました。 (ここから夢が広がる) ■祭礼風流などは漁師などにより民間交流の中で中央から徐々に伝播するものではないかと常識的に考えていたが、このだんじり進行図では本来文化材など何も無いはずの山奥の別子に、祭り資材類が大坂から一挙に飛んで来たような気配であります。これは坑内労働者が細々と伝播したものではなく、住友家企業による誘致だと判断できます。 ■天保12年(1841年)というのは既に新居浜地方には神輿太鼓が導入され地域内で浸透しつつある時期であります。新居浜で使わなくなったダンジリを買い受けた可能性やレンタルされた可能性もあります。しかし、企業による誘致ならば天下の住友家がレンタルなどケチ臭いことはしないでしょう。しかもこの別子の「だんじり」は、同年代に描かれた絵巻にある西条の楽車とは形式が異なるので出所が違うのだろう。そうすると大坂の大工によって新調されたものなのか。夢が広がる。 ■余談だが、新居浜関係の古文書に天明や寛政年間の川東の祭礼「芸だんじり」というものが出てくる。
■別子の「だんじり」において大屋根の下が芸をする舞台ならば、小屋根の下は笛太鼓鉦三弦など囃子方が鎮座する場所に相当するのだろう。そうすると川東の「芸だんじり」というものは別子の「だんじり」と同様の構造の物だったのではなかろうか。歌舞伎などは無理だが手踊りか何か子供芸をしたのでありましょうか。 (後考を待つ) (031001新規上梓)
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