太鼓館特別研究

新居浜太鼓台の進歩と調和(1)

 

 

太鼓の登場は西暦1823年(文政6年)とする説

 

●太鼓台の登場が文政年間であることは、既に多くの諸先輩の研究歴があり、書籍「新居浜太鼓台」にもその研究結果が掲載されています。

 


 

(ここから書籍「新居浜太鼓台」の摘要)

 

西暦1711年(正徳元年)一宮神社御用留帳

●新居浜地方の祭礼の神幸(みゆき)行列に神具以外の出し物(すなわち風流(ふりゅう)の系列)が御供に加わったことが初めて確認できる。正徳元年(1711)の一宮神社文書(御用留帳)は行列順序の定め書きであって「のぼり、かさ鉾、吹貫、母袋(ほろ)、ひちり、台車御舟、神馬、長柄、台かさ、御弓、御鉄砲、御太刀、御長刀、御榊、太鼓、御鉾、御幣、御神輿、御神供箱、散銭箱、台、備板、挟箱」の順となっている。このうち、かさ鉾、台車、御舟が風流系の出し物である。

 

●かさ鉾は現在も京都祇園祭で巡行している四条笠鉾に近いものであろうか。台車はダンジリでこの地方の屋台類のとしては文献上の初見である。御舟は舟だんじりであろう。

 

 

西暦1785年(天明5年)大原家文書

 

●垣生村が初めて芸だんじりを出し、子供が少し芸をする。翌天明6年(1786)、沢津村は大島から芸だんじりを借りて子供芸をさせた。天明8年(1788)、沢津村は芸だんじりを新調し、沢津・垣生とも芸をする。浦手垣生では、小屋掛けして舞子芸を有料で見せ賑わった。

 

 

西暦1823年(文政6年)船大工仲間の「永代迄の諸覚帳」

 

●船大工仲間から藩庁へ提出陳情した時の書類の控集がある。ここに、文政5年(1822)「東壇尻 船大工中仕、御舟 右同断、田野上壇尻 佐兵衛仕」、文政6年(1823)「東町太鼓 右同断、東壇尻 船大工中仕」、天保8年(1837)「田野上壇尻 為助仕」、天保12(1841)「田野上壇尻 利吉仕」と記載されている。

 

●東町太鼓(そのころは太皷と書いた)はおそらく神輿太鼓と呼ばれたものと思われる。そのころ神輿太鼓とはどんな形式であったか、確定するための資料に欠けている。しかし、祭礼出し物の分類上は太鼓台類に入ることには間違いはない。しかし、文政6年のこの東町太鼓が古文書で見る“太鼓台類”に新居浜地方でも初見である

 

 

西暦1826年(文政9年)一宮神社文書「御用方留帳」

 

●新居浜地方の神輿太鼓の導入は西条伊曽乃神社祭礼のみこし太鼓の文献上の初見の文政9年(1826)と対比すると3年早い。文政9年の一宮神社文書御用方留帳には西条藩加役が(みこし太鼓について)先例のある新居浜一宮神社の神主への問い合わせした時の回答の控えがある。「壇尻再興または近年に至りみこし太鼓と申すもの出来……」とある。

 

 

西暦1833年(天保4年)大島中之町所蔵太鼓入用帳

 

●“太鼓台類”ではなく、厳格に“太鼓台”の初見となると、天保4年(1833)の「大島中之町に“太鼓台”新造立する」という文章である(大島中之町所蔵太鼓入用帳)。

 

 

西暦1842年(天保13年)頃 西条誌

 

●新居浜浦の項に「この浦の氏神は金子村の一宮明神なり、9月19日祭礼の時、隔年に船みゆきあり、これは神輿をはじめ鉾・槍・鳥毛槍・幟に至るまで一切供奉の器杖及び臺尻(壇尻とも書く)神輿太鼓と云うものなどを、大江橋の辺より舟に載せ、濱手を漕ぎ廻す。陸より望みて甚だ見事なり。臺尻みこし太鼓金子村と合わせて17あり。」と見える。

 

●上泉川村の項では、「浦渡明神、祭日神輿みゆきあり、台尻少々出ず」とあり、大島浦の項では、「祭日、神輿みゆきあり。台尻、みこし太鼓等合わせて6つ」とある。

 

●大島浦黒島の黒島神社には「祭日9月9日、御代参あり」とのみ記さる。

 

 

西暦1849年(嘉永2年)家躰神輿太皷錺物調帳かざりものしらべちょう

 

●東町家躰、西町家躰、西原家躰、中須賀御船、東町神輿太鼓、西町神輿太鼓、中須賀神輿太鼓、東須賀神輿太鼓の飾り物の詳細が記されている。

 

 

西暦1850年(嘉永3年)福田家文書

 

●大島の次に太鼓台と書いてある古文書は、嘉永3年(1850)の又野太鼓台に関する記録である。又野の若者11名が、太鼓台新調の割当て銭未納の百姓を村八分とし、塀・瓦などに損害を与えた。その謝罪文中に太鼓台の名称が出てくる。

 

 

西暦1856年(安政3年)福田家文書「垣生村庄屋諸事日記」

 

●旧暦8月13日夜、山端、北垣生、本郷の3台が太鼓台に御法度の華美な新調飾りを無許可にもかかわらず着けて大問題となったのに、本郷はさらに14日にも付けて出した。これに対し村役人は3台の運行停止と本郷の新調布団締め取り上げの処分を決めた。若者連中ら反発した。この一連の文書の中に「山端、北垣生太鼓台は7,8年前より出来の由」の記録がある。嘉永2年(1849)頃に新営されたらしい。

 

(ここまで書籍「新居浜太鼓台」の摘要)

 


 

(ここから西園寺穂純の個人意見)

 

●太鼓、神輿太鼓、太鼓台の3種の記述がある。神輿太鼓と太鼓台は形状や運行方法が同一のものか別のものかについての結論は出ていないが “太鼓台類”としては同分類でしょう。

 

●かつて新居浜観光協会?は昭和晩年頃に地上波テレビのスポットCMにおいて「300年の歴史と伝統〜新居浜太鼓祭り」と大々的に宣伝していました。これは上記の正徳元年の文献に依拠したものであると思います。ところがこれはダンジリ初登場の文献ですから「太鼓祭り」の起源とは的外れです。西園寺穂純は、新居浜太鼓祭りと謳っているのですからダンジリではなく太鼓の初登場が文献上確認できるもので判断すべきと思料し、の文政6年を太鼓の登場とする説を支持します。

 

●西暦1823年(文政6年)が新居浜地方における太鼓第1回登場年であるならば、来る西暦2022年(令和4年)が登場して200年目の記念年になります。200年目までは是非生きていたい。

 

 

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