太鼓館 西園寺穂純
プライベートルーム

西園寺穂純の新居浜太鼓祭り回想録(19)

 

 

平成1216()17()18() 松山3年目

 

●祭り前には、あそこも見たいここも見たいと思いをめぐらせ、頭の中で懸命の日程調整に励んだ結果、文句のつけ様の無い行動予定が出来ました。特に去年から今年にかけては1日も休むことなくインターネットで太鼓台と祭りの情報を仕入れ続けましたので、その思いも一入でした。けれども現実は厳しく、今年の祭り見物も時間制限付きの通い祭りとなりました。

 

16日午後に高速いよ西条インターを降りました。国道を東へ向うと、萩生で大生院の太鼓に出会います。越境かとも思われますが大生院は中萩の太鼓と統一行動しているから良いのでしょう。東城で北へ曲がると、何と警察署の敷地内に土橋が居ました。これも越境だと思いますが、警察に呼ばれたのでしょうか。警察に自らわざわざ出向くことは無いと思いますが、何とも解せません。西の土居付近では中須賀が重点的に華集めをしています。来年?の西之土居太鼓台大復活に関して西方へのお誘いでしょうか?

 

●川東へ足を向けますと垣生軍団が新居浜東港方面へ移動中でした。こちらは車ですからこのままついて行っても良いのですが、万が一コトが起こると面倒なので東港の多喜浜側で見物することにしました。ずいぶん小さく見えますがそれなりに良い眺めでした。法被の色からどの太鼓台かははっきり認識できます。多喜浜側では白浜・東浜・新田の各太鼓台に出会いました。

 

17日は10時前に労災前に辿り着きました。太鼓台はまだ来ていませんでしたので、東に歩いて行きますと、太鼓台群は澤津の本部落を進行中でした。澤津は重の旗を変更していました。紫地に白抜き文字にしています。元に戻した感じですが、元のはもう少し紫が濃かったと思います。それに元々の字は「澤津」と「さわづ」でしたが、今回のは字がはっきり読み取れません。3文字ですのでサワヅであることは間違いないのですが、読めるのは津だけであとは分かりませんでした。

 

●宇高は法被を新調しています。丈の長い松神子タイプです。背中は枠に宇高、襟には澤津同様の八旛神社氏子中の文字がありました。太鼓台本体もどこか変えたのか少し今までとは違うような気もしました。浮島は括りの巻き布を黄色から白に変えています。独立元の町が変更したのに追随しての変更でしょうが、まだ似合いません。町の白は過去にその実績がありましたので比較的すんなりと受け入れられたと思いますが、浮島の白に慣れるには少し時間がかかりそうです。町と本郷には変化は無いように見受けました。山端は房を新調しています。薄色の房は美しいと思います。

 

●路地を通った後、例によって県道へ出てから新高橋上へ揃います。各太鼓台は棒端合わせをやりまくります。棒端合わせは仲の良い太鼓台同士のご挨拶で言わば太鼓台のキスみたいなものです。昔から垣生の太鼓は良くやっていましたが、高津の太鼓はあまりやらなかったものです。しかし今年は宇高と澤津もやっていました。それにしても橋上での端合わせは合わせた途端に橋が大きく揺れて迫力満点でした。

 

●太鼓はこのあと河川敷へ降りますが、見たところ今年は客が少ないようです。去年は日曜でしたし、新調の本郷見たさのお客さんもかなり居たのですが、今年は去年の半分くらいしか居ないと思います。6台の太鼓台も今年は下手で落としまくっています。どうも運行コースが難しいのではないでしょうか。去年までなら、土手の道からコナカラ坂を降りて、勢いのついたまま直進すれば良かったのですが、今年は運営委員会の車が労災病院側に陣取っていますので、右に急カーブしなければなりません。澤津と浮島がマアマアの運行だったと思いますが、他は見るものがありませんでした。

 

●何とここで本郷が宇高と向き合いました。本郷が落とした途端に宇高に棒を向けたように見えました。宇高も棒だけ向けました。宇高の指揮者は「相手が違う、早う下げエ!」と毅然とした態度で仁王立ち。これなら絶対に喧嘩にはならないと安心できました。この時の宇高の姿を見て宇高の変更点がやっと分かりました。今年、宇高は重の旗の角度をずいぶん寝かせています。確か昭和40年代はこの角度だったと思います。昔に戻したのでしょう。

 

●帰途、山端は普通に出ましたが、本郷はあらぬことか全然上がらない舁けない進めないの三重苦に陥っています。次の町が迫っています。焦れば焦るほど二進も三進もいかない。とうとうヒコズッての退場となりました。グラウンドには2条の轍ならぬ橇だちが残り、不細工さを見せつけました。続いて町が退場、本郷よナンションゾとばかりにいとも簡単に退場と着車を済ませ、すました顔で北へ。舁き比べ審査では浮島が優勝しましたが、この時の町の動きにはまばらな観客からも大きな拍手が起こりました。観客は良く知っています。私も町太鼓台に西正寺穂純賞を贈りたいと思ったくらいでした。

 

●本日はここまで、松山に帰ってお仕事です。帰宅後、国語辞典を調べまくりました。澤津の重の旗の文字が何であるか調べたかったからです。割と簡単に澤津の旗の文字は「左和津」であることが分かりました。左と和の字はかなり崩れていてひらがなかも知れません。ならば「さわ津」です。この旗を見た途端に判読できない悔しさに苛まれていたのですが、胸のつかえがおりました。

 

18日も午前中はお仕事です。無理を言って、今日も午後から休ませてもらい、車を走らせます。午後2時半ごろに八旛さんに着きました。黄色の田之上が見えます。神社前で太鼓台が集結しています。ちょっと遅かったか。いや大丈夫です、まだ着いたばかりで宮入はしていません。良かった。神社前には神郷の5台が県道上西側へ多喜浜4台が東側に並んでいます。田之上は重の旗を昔の桜の図柄のものに戻していました。

 

●暗い。今にも雨が降りそうです。宮入り前に見ておきたい太鼓台がありましたので多喜浜の方へ移動します。宮入りしてからでは身動きが取れなくなります。東浜太鼓台は今年是非みてみたい太鼓台でした。地元伝承で延暦寺の幕があって金龍の旗があるというので確認したいと思っていました。8枚の幕を舐めるように見ましたがそれは確認できませんでした。東浜は風鐸(御殿幕の軒下から下がっているビラビラ)を金属から金糸縫いに変更していました。重の旗も青旗に金糸縫いという近郷では類を見ない旗に変更されていました。

 

●宮入りが始まりました。思えば最終日の八旛さんの宮入りは久しぶりです。去年一昨年は来られませんでした。平成9年は居ましたがケンカのため本格的な宮入りは無く、平成8年は来られずでしたので、平成7年以来5年ぶりです。そして私にとって川東合同の統一行動は、平成3年に分裂、2年は解体、元年喧嘩でしたので、実に昭和63年以来12年ぶりなのです。そう思うと何だか胸の中に熱い物がこみ上げてきました。12年の間には随分いろんなことがありましたが、しかしこの熱気は当時と少しも変わりません。

 

●多喜浜の太鼓は落としまくっています。可哀想な感じさえします。神郷はマアマアです。下郷が重の旗を変えてきました。白抜きがきれいです。ずっとこのままでいて欲しいと思います。松神子は気合も入っていて運行も上手でしたが、天幕にビニールをかけたままでの宮入りは如何なものでしょうか。

 

●宇高が来ました。澤津が入ります。浮島が頑張っています。やはり八旛氏子の太鼓台は八旛さんが似合います。けれども何とも進行が遅すぎます。本郷が入ってきた時点で午後5時になってしまい時間切れです。ここから後が面白かったのは十分に予想できましたが、仕方ありません。帰途、車の中で川西が混戦状態にあることを知りました。

 

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(天気表出典goo松山の過去の天気)

 

 

 (010823令和上梓)
(010831
天気加筆)
(020812
体裁変更)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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