太鼓館 西園寺穂純
プライベートルーム

西園寺穂純の新居浜太鼓祭り回想録(16)

 

 

平成9年 16()17()18() 松山(重信)2年目

 

●今年は新居浜市制施行60周年の年だそうです。これを記念して統一寄せが行われることになっています。事前にテレビや新聞報道でその概略は知っていましたが、大生院を除く市内39太鼓台を全台堺筋の元塚から市役所前まで集めるのだといいます。堺筋を今は楠中央通りと言うらしいです。39台は昨年と比べると2台増えています。上部は中萩地区の上原太鼓台(旧中村)と萩生東太鼓台(旧萩生)です。これで中萩地区は中村3台と萩生3台の計6台となり、ずいぶん充実してきました。上部地区は中萩6台、泉川2台、角野4台、船木4台の合計17台の大所帯となりました。

 

●サラの太鼓台は是非とも見てみたいと思います。上原、萩生東の2台は勿論のこと、今年幕が揃った新須賀、少し前の新調だがまだじっくり見たことのない久保田と東町と元船木、それに去年初登場の大生院の喜来、昨年新調の船屋(西条)などなどどれも見てみたいと思います。しかし、そういう訳にもいきません。そこで熟考の結果、16日は八旛神社氏参り、17日は堺筋の統一寄せ、18日は八旛神社宮入りとすることにしました。

 

14日は例によって土居町は海通橋です。ずいぶんきれいに整備され関川ふれあい広場とかいう名前がついています。今年新調の太鼓台はありませんでしたが、小林・泉・土居・中村の4太鼓台が近年中に新調とのことです。今年不参加だった東天満も来年新調だと思いますので、北野・内之川・関・本郷・畑野・入野・飯武・下天満・上天満・蕪崎の既に新調している10太鼓台と併せて15台がサラ太鼓となります。残るは旧宇高の野田太鼓台とレンタルの津根太鼓台の2台だけとなります。蕪崎太鼓台が天幕を旭天幕に変更していましたが、後は特に変った所はありませんでした。

 

16日の八旛神社氏参りは絶対に見てみたい行事でした。祭りの2日目、3日目はじっくり見ることがあっても、初日はなかなか見られるものではありません。十年前ぐらいに1回だけ見たことがあるのですが、その時とどう変っているのか興味があります。八旛さんの氏参りに間に合うようにと思って8時前に家を出たのですが、少し遅かったのか神社前で先に太鼓台が居て、車で行った私は身動きが取れなくなってしまいました。裏から回って何とか神社にたどり着きましたが、最初からの段取り一切を見分するわけにはいきませんでした。それでも、各太鼓台は車を着けたままではありますが、最終日宮入り同様本殿を左から右回りに一周して本殿前に集合します。宮入りでは本殿を境に東西に3台ずつ東西方向に並べますが、氏参りでは、本殿に正対して6台全部が並んでいました。町と宇高などは早速ソーリャッソーリャーと様子をしたりしていますが当然顔は笑っています。並び順は東から山端、本郷、町、浮島、宇高、澤津の順です。

 

●並んだところで太鼓が止まり、神事が始められました。最初に神職による祝詞奏上です。続いてお祓いで、初めに全体のお祓いが1回あって、続いて各部落別に太鼓台の前でお祓いをします。先に太鼓台のお祓いで、次に町衆のお祓いです。これが6台すべてに行われます。これが終わると神職のお言葉がありました。内容は「神輿新調のお礼と太鼓台の安全運行のお願い」といったところでした。神輿は80余年ぶりの新調とのことです。次に運営委員長のあいさつで、内容は「今年は市制60周年記念の統一寄せや多喜浜駅前と八旛神社での川東地区との合同運行など他所の太鼓台との接触が多くなるのでケンカなどしないよう十分に注意してください」といったもので、こうなるともう町内会の朝礼といった雰囲気です。次に運営委員長の玉串奉奠があって、最後に山端自治会長の乾杯の音頭で乾杯という段取りでした。舁き夫は各太鼓台とも50人ぐらいは来ています。澤津や宇高は若い衆が多いのですが、山端・町と言ったところは年配の方も結構多いようです。漁は済んだのでしょうか。けっこうはしゃいでいます。いくつになっても祭りは楽しいのでしょう。

 

●本郷・町・浮島などはかき棒に手摺りをつけた特製の子供用長椅子をくくりつけており、浮島はさっそくミドリ保育園の園児を乗せて境内を一回りしていました。

 

●澤津の房は青年団が手作りで新調したと新聞に載っていましたが、現物の出来はなかなかのものです。高欄右の幕が変更されていました。この位置には「東照宮と蛙股の鷲」という幕があったのですが、退治もののような武者絵となっていました。氏参り神事は、午前8時半入場開始で8時45分に神事開始、散会退場は9時10分でした。

 

●その後お昼頃、本郷(中村)自治会館に地元本郷と大生院の下本郷と喜来の太鼓台が休憩しているのを見ました。待望の喜来太鼓台と初対面です。昨年のビデオを見た限りでは布団締めが小さかったのですが、今年は立派な物に更新されています。括りの巻きの色が金色で、上水引の図柄が神功皇后三韓征伐という続き図柄でなかなか素晴らしいものでした。次いで神郷小学校前で楠崎と田之上それに多喜浜駅前で又野太鼓台を確認しました。田之上太鼓台は天幕が旭天幕になっていました。戦後間もなくまで旭天幕を使っていたそうですが、赤白青三色市松の模様が長かっただけに随分違和感があります。重の旗も昔風の優勝旗スタイルになっており、かなり古風な感じがします。楠崎は幕の三申の符号を大きく縫い直していました。

 

17日は堺筋です。ここでは是非とも上原・萩生東・元船木・久保田・新須賀・東町をこの目で見たいし写真に収めておきたいと思います。河川敷公園に車を置かされて皆ひたすら歩きます。垣生から歩いてきたという人もいます。「河川敷でやりゃーええのに」の声多数。

 

●堺筋は市役所前から元塚に向けて、上部、川東、川東西部、川西の順で並んでいます。上部の所で萩生東と上原に初対面を果たします。萩生東の天幕は赤白青白の市松模様、括りの巻き布や貫きの色は緑、法被は紫色で背中は萩生東の文字です。図柄はよくは分からないが上水引は平清盛の続き図柄のようです。布団締めは少し迫力不足でしょうか。上原はオレンジの雰囲気の太鼓台で、赤白青市松の天幕、法被はオレンジ色で背中は鳥の模様だけで文字は無く、襟は上原太鼓台・上原自治会でした。元船木太鼓台も見ましたが図柄は良く分かりませんでした。上部では喜光地太鼓台が天幕を旭天幕に変更していました。良いアイデアだと思います。そのほか、川東では新田太鼓台も天幕を赤白縞の縦付けに変更していました。この太鼓台は2〜3年前に赤白市松、その前が赤白青縞縦付け、昭和30年代は赤白長方形市松と変更に変更を重ねています。しかし今回のが一番良く似合っていると思います。

 

●上部から川東、川東西部と下ってきたところ、全部の太鼓台が入場したのかと更に下に目を向けると川西は半分くらいしか入っていない模様です。何か様子が変です。皆んな北を向いています。何とそこでは裸太鼓がケンカを展開しているではありませんか。

 

北の太鼓台は丸裸だが、南側の太鼓台は布団締めと括りは付いたままだ。北は赤いジャージだ。中須賀か?相手は青の括り巻きだ。中須賀の相手で青色と言えば…大江黄色、東町緑、久保田桃色、アレまさかの新田か黄色、違う違う。青の括り巻は江口だ。すると相手の赤いジャージは久保田か。ハッハーなるほど、久保田と江口か。でも何でここでケンカなのか理解に苦しむ。だが、自然と足が現場へ向かってしまう。戦況はというと久保田優勢に戦いは続く、どうも江口の太鼓台の動きが悪い。江口が下側から煽られて横倒しされそうになる。悲鳴が起こる。何とも言えないケンカの醍醐味だ。どっちが勝とうが負けようが自分には関係ないので安心して見ていられる。久保田が突いてばかりで、江口は棒さえ上がらない。何回かの突きの後、止めの一撃と言うべき一突きが決まって、ものの見事に江口の重がふっ飛んだ。重には3人ぐらいの人が上がっていたが、一瞬のうちにひっくり返った。九重には括りと布団締めが付いている。落ちた衝撃でかなり傷んでいるはずだと思う。

 

●人間のケガよりも飾り幕の傷みを心配する自分が何とも情けなくも新居浜人だと改めて思います。昔から太鼓のケンカで勝負がつくのは太鼓が割られたりして鳴らなくなった場合と九重が落ちたときの二つしかないと教えられてきました。太鼓のケンカは数あれど勝負がつくのは滅多になく、死者が出ようが太鼓台が横倒しさせられようが関係なく、優勢勝ちなどと言って相手をコテンパンにやっつけていても、勝負のうえでは引き分けなのです。これは翌年以降に因縁を残さない良く考えられた判定方法であります。それはそれで良いのですが、逆に勝負がついてしまったケンカの翌年以降はお礼参りが大変心配されます。昭和40年代(44年か45年かと思う)に川西で重が飛んだことがあります。その翌年は更にメチャクチャになり、逮捕者を出すことになったと思います。重が飛ぶのは太鼓台の四本柱が木製であることが原因で、専ら川西地区の専売特許です。

 

●何でも人の話を総合すると、久保田が一方的に裸で入ってきたとのことです。でも江口も応じたのですから仕方ないと思います。久保田はとうとう切れたとの噂でした。なるほど分からないことはありません。昨年も数年前も久保田は中須賀、江口、西原などに何回も何回も持って来られています。じっと我慢し続け、時には逃げ出さなければならなかった屈辱感には同情して余りあります。統一寄せには新田、東町、大江は入場できなかった模様です。ケンカは仕方ないと思いますが、2日目朝からやってしまうと別の地区でも荒れてしまうので、これから後が心配です。

 

●新須賀太鼓台は赤白市松の天幕、括り巻、貫き、手旗はオレンジ色、旗は枠に新須賀の文字の染め抜きです。幕の符号は縮み三文字、布団締めは旧東町のもので、上水引と高欄幕は旧坂出新浜太鼓台(先々代の田之上太鼓台)のそれに酷似しています。上水引は日光東照宮もの、高欄幕は獅子もので、高欄正面の鷲と牡丹の図柄は近年の新居浜では見られなかったものです。きっと先々代の田之上太鼓台の幕を参考に幕を作成したものでしょう。法被は無彩色で背中は枠に新須賀の文字、襟文字は新須賀太鼓台・新須賀自治会でした。

 

●午後は夕方テレビ中継があるのでそれを見ることにしました。テレビ愛媛、南海放送、あいテレビは多喜浜駅前から、愛媛朝日テレビは中萩地区本郷のフジ駐車場からの中継でした。多喜浜駅前からの中継では、中継までに川東西部の6台は県道西側に、東から南側町、北側浮島、次に本郷、山端、一番西に澤津、宇高と入場を終え、川東の8台が入場する所が中継されました。多喜浜が先で神郷が後でした。中継の終わりごろ、山端が下がった後、阿島が持ってきたような絵が少し映りました。山端の後は本郷だと思うのですが、8年前のことが遺恨となっていなければ良いのだがと思います。

 

●最終日は八旛神社と決まっています。昨年見られなかっただけにこの賑わいも久しぶりです。本殿前に新調なった御神輿が置かれてありました。金ピカの御神輿で細かい細工が美しい。恐らく1千万円は下らないでしょう。愛媛県の神社の中で美しい御神輿を持っているのは西条の伊曽乃神社が一番だと思いますが、ここのも負けないものとなりました。

 

さて太鼓の方は、西から澤津と宇高がドーンデンドーンとやって来ます。これからエビスで垣生組と合流して統一行動開始です。人の話では昨日多喜浜駅前で本郷阿島が小競ったので川東との合同かきくらべは中止になったとのことです。神社東に1台太鼓台が見えます。赤白青の市松天幕は川東西部ではありません、川東地区の太鼓台です。松神子か?しかし何しに来たんだ?ケンカがしたいのか?挑発か?待ってましたとばかりに宇高は追いかけます。間に運営委員会の車が入って、事なきを得ましたが、危ない危ない。続いて本郷自治会館前で花束贈呈があって、唐樋(からひ=垣生の南端で松神子との境)まで流れて引き返してくるのが例年の動きです。浮島、町、山端、宇高、澤津、本郷の順で唐樋に向かいましたが、引き返して来ません。何と宇高と澤津は前3台を追い越して更に南進しています。残った太鼓台もエーイ行け行けと全部南進。江の口バス停の寸前でまたまた運営委員会の車が割り込んで止どまらせます。引き返しの道すがら、順番入れ替えのために宇高が帰ってくると垣生の太鼓台からも大きな拍手が起こりました。

 

●太鼓台は参道正面二の鳥居に集合しつつありました。なかなか宮入りしないのでおかしいなと思っていると、いつの間にか八旛東には裸太鼓が1台来ていてその後に何台かの太鼓台が飾りをつけたまま続いているようです。宇高は高欄幕と上水引を外し、呼応する態勢。澤津はケンカ道具を自治会館まで軽四で取りに帰るなど慌ただしい。何と川東西部は6台全部が裸太鼓になって、けんかスタイルのまま形ばかりの宮入り。宇高、澤津、浮島、町、本郷、山端の順で入り、出て来た後は境内に澤津と浮島、県道に宇高と町いつもは敵同士なのだが珍しい、二の鳥居参道に本郷と山端と言う具合に各道筋に2台ずつを配す鉄壁の布陣で迎え撃つようです。八旛西の県道は2車線に両側歩道が整備されていますが、八旛東は1車線半で歩道なしという道の狭さです。昔からケンカの名所、過去には名勝負が幾度となく展開された場所です。狭いところに追い込んで一気に片付けるという戦法は基本中の基本で、広い所へ逃げられると運動会になってしまいます。宇高側川東西部の守りは万全、相手の松神子もこの態勢ではまともには来られないだろう。

 

宇高はもともとおとなしい太鼓台の代名詞でした。天幕に緑色を用いているところでも分かるように、広い意味での川東のうち純粋の農業を中心とした部落です。他所の農業部落もそうであるように、太鼓台を上手に舁くことにかけては新居浜で一番とか二番とか言われますが、それが気に食わないと他所の太鼓台の標的となっています。平成元年多喜浜駅前で松神子と楠崎に、同2年国領川河川敷公園でも松神子と楠崎に持って来られました。元年は我慢し、2年は代わって隣部落の澤津が受けてくれ楠崎対澤津の対戦となってしまい、澤津に迷惑がかかりました。これが原因となって川東は分裂。分裂後の川東西部の中でも本郷や町に度々持って来られています。決して宇高から先に攻めることはありません。一部よりが戻った昨年は八旛神社境内でまたまた松神子に持って来られていて、もう堪忍袋の緒が切れたといったところの心境でしょう。昨日の久保田の心境と好一対です。

 

●時間切れだ。ケンカを尻目に帰途につきました。結果は衆知の通りで、夜のテレビは全国ニュースのトップで見物人死亡のことを放送していた。また川西でも宮入り後に西町東町がケンカしたことも伝えていました。

 

●祭りから数日すると、祭りの様子があちらこちらから聞こえて来ました。新聞は特集を組み、テレビは御意見ファックスを募集する。マスコミの論調は、


・ケンカばっかりして神事を疎かにした祭りは本当の祭りではない
・久保田太鼓台が一方的に裸太鼓でやってきて、ケンカ準備さえ出来ていない江口太鼓台を急襲したのはけしからん
・狭いところでケンカをすると、死傷者が出るのは目に見えているのに、これを続ける新居浜人を理解出来ない
・運営組織はケンカが予測されたのに何にも出来なかったのか
といったところで、昨日まで新居浜太鼓祭りは素晴らしいなどと言っていたのに、見事に手のひらを返し、それ見たことかと言わんばかりです。

 

●論調の内容は気分的には理解出来ないことはありませんが、私は敢えて反論しておきたいと思います。

 

・先ずビデオで久保田と江口の出入りをじっくりと見ると、久保田が来て相当時間あって江口と相まみえていることが分かります。久保田が裸で来ることには大問題がありますが江口も受けて立ったのですから、ここは喧嘩両成敗とするのが適当であり、逆に江口がそれ以降の運行行事に出場したのは今後に問題を残すと思います。

 

・宇高と松神子が戦った場所は昔からケンカの名所として有名な所で、狭いのは事実ですが過去に幾勝負もあった所です。昨日や今日急に狭くなったのではありません。過去最も広い場所で行われたケンカとして有名な6年の船木小学校グラウンドでのケンカでも相当数のケガ人が出ています。狭い広いは死傷者数と相関関係はあまりないものと思います。

 

●愛媛新聞で「崩れる平和運行」という太鼓台のケンカをテーマとした連載記事がありました。ケンカの原因や伏線それに責任の所在を探ろうとするもので大変興味深いものでした。その中で中須賀が久保田を狙う理由がやっと分かりました。新聞によりますと、愛媛県が宇和町に建設した歴史文化博物館に太鼓台を展示することとなりましたが、どの太鼓台を展示するかを市や運営委員会には話をせずに、内々に一部の識者に打診しました。当時の有力県議は中須賀太鼓台を推薦しましたが、楠崎在住の縫い師は久保田太鼓台を推しました。結果は衆知の通り久保田のが博物館に座り、代わって県費で新調した超豪華太鼓台が久保田に届いて現在の祭りに出場しています。この流れを当時久保田自治会の幹部が新居浜市役所の要職にあり、この幹部が独断で久保田太鼓台博物館行きの段取りをつけたとの噂が中須賀側に広がり中須賀太鼓台が逆恨みしている、というものでした。

 

●博物館行きの太鼓台はどんなものが適当であるかは意見が異なるところではあるとは思いますが、私も久保田の博物館行きにはかねがね疑問を持っていました。当時新居浜には超国宝級の山下八郎の幕を持つ太鼓台が2台(角野の新田太鼓台と垣生の本郷太鼓台)あり、このうちのどちらかが適当だと考えていました。次に重要文化財級の梶内近一の幕が数台あります。中須賀もその中の1台で、高欄幕は昭和35年の作で上水引と布団締めは46年の作です。少し古くなってはいますがいわゆる赤金の重厚な光を放つ幕は人気が高いのです。中須賀を不採用としたのは別としても、久保田はないだろうと思っていましたが、やっと疑問が解けました。

 

●私も新居浜太鼓祭りが死者を出したことを深く反省し、太鼓台の研究を1年間自粛すると一度は断言したのですが、今こそ研究を平和運行に生かせとの励ましを頂いたこともあり、元の通り研究を続けることとします。

 

1997

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(天気表出典goo松山の過去の天気)

 

 

 (010823令和上梓)
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