太鼓館 西園寺穂純
プライベートルーム

西園寺穂純の新居浜太鼓祭り回想録(7)

 

 

昭和60 16()17()18() 松山1年目

 

●私はこの年の夏場に松山駅前のラーメン屋さんでとんでもない新聞記事を目にしたのです。それは、デイリースポーツというスポーツ新聞の裏一面に載っていた「ザ・祭り=太鼓台のふるさとを行く」という囲み記事です。ラーメン屋さんで初めて見たのが連載第7回ぐらいだったと思います。私の手元のファイルには第9回から最終回までの切り抜きが保存されていますが、第9回の日付は昭和6010月4日とあります。それから毎週金曜日はデイリースポーツを買い続けました。なかなか進行せずにジリジリした思いをすることもありましたが、良く調べあげて書かれており、随分勉強になりました。この「太鼓台のふるさとを行く」こそが、西園寺穂純の太鼓台研究の原動力になったといっても過言ではないと思っています。

 

●そんな中での新居浜太鼓祭りは、川東で私にとっては幻の白浜太鼓台が復活したのです。昔から川東の太鼓台の数は13台であると聞かされていたし、唯一見たことのないのは白浜であると知ってはいましたが、ついに全台サラ太鼓で出揃ったのです。2日目に多喜浜駅前で見ましたが、名前に合わせて括りの巻きの色が白で、貫きの色の紫が何とも高貴な薫りを漂わせていました。白浜太鼓台はケンカ好きとは聞いていましたが、噂に違わず早速暴れまくっていたようです。

 

●川東13台が出揃ったことで、運行形態にも変化が見られました。昔は、八旛祭りと多喜浜祭りに分れていたのですが、全13台が総て一緒に行動するようになりました。これには道路の整備、拡幅や舗装が大きく貢献したことも一因であると考えられます。最も西の澤津と最も東の阿島との間には約8qもの距離がありますので、 特に2日目の運行は大変でした。午前中に垣生エビスから宇高経由で国領川河川敷公園、午後は再びエビスから江の口・田之上を経て旧県道を松神子・又野・楠崎・新田・白浜・東浜・阿島まで行って引き返してやっと多喜浜駅前でかきくらべです。朝8時頃から運行を開始しても帰落するのは夜9時位でした。また3日目の宮入りも全13台が八旛入りすることとなりました。昔と違って、宮入りの順番は小学校区毎に整理され、1高津2垣生3神郷4多喜浜の順の年と、1高津2神郷3多喜浜4垣生の順の年が隔年に配置されていたように思います。境内での並び順も、本殿を正面に見て左手前に高津分、奥に神郷分、右手前に多喜浜分、奥に垣生分と統一されました。

 

1985

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昭和61 16()17()18() 松山2年目

 

●この年、多喜浜駅前で白浜太鼓台本郷太鼓台とが争うが大事には至りませんでした。この年の新居浜太鼓祭りの愛媛新聞の記事で「市民は非日常を楽しんだ。」とありましたが、非日常とはけだし至言であります。

 

1986

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昭和62 16()17()18() 新居浜1年目

 

●この年は中日に国領川河川敷公園で市制50周年統一寄せが実行されました。台風の影響で1日目は激しい雨、私は市内某所の団地に住んでいましたが雨水が押入れに滲んできたのを覚えています。それでも2日目は何とか回復して統一寄せが行われました。国領川河川敷公園と言えば川東地区の太鼓台が毎年かきくらべをしている場所ですが、それは河川敷右岸。ところが寄せが行われたのは河川敷左岸でした。きっと川西がゴネたのだろうと思います。統一寄せ自体は市外向けの観光の目玉にはなるでしょうが私はあまり好みません。ちっとも面白くないからです。

 

●同じ日の夕刻、川東の太鼓台は例年どおり多喜浜駅前に集結しました。ここでは入場の際に伊賀県知事が本郷太鼓台に乗って登場しました。伊賀知事は太鼓好きです。太鼓好きのオッサンは沢山居ますが、伊賀さんは単なるオッサンではなく愛媛県知事です。太鼓台には結構県費を使ってくれるのです。そんな知事の乗った本郷太鼓台もその後間もなく松神子と小競り合いを演じることとなります。その前には白浜田之上の棒が向い合いました。

 

●3日目は日曜日に当たり、八旛さんは大混雑していました。翌日の愛媛新聞の切り抜きが手元にありますがこれによると、「八旛神社にはこの日最高の4万人の人出」とのこと。切り抜きには他に「一宮神社では大江太鼓台が本殿回りのコースをはずれて西原太鼓台を“急襲”」 などの文字が踊っています。

 

1987

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昭和63 16()17()18() 新居浜2年目

 

●太鼓台に大きな動きがありました。2日目の国領川河川敷公園での統一行動の際に、宇高が限りなくケンカに近い小競り合いを演じてしまうのです。(小競り合いとしながらも字を赤色にしているのは、運営団体と私の判断が違うためで、私の判断は些か独断的ではありますが、舁き棒が相手の太鼓台の棒端より奥に入り舁き棒以外の構造物を突付いた時点でケンカと判断しています。)

 

●川東の2日目は超過密スケジュールであるためか河川敷公園でのかきくらべは車輪をつけたまま行われていました。更に具合の悪いことに運行順は友好関係を無視した校区順としていたため、仲の悪い町と宇高が隣り同士となってしまい、ちょっとしたことからケンカに発展してしまったのです。この出入りは現場でじっくり見ましたしビデオも残っているので今でもはっきり確認できますが、町の棒が宇高の高欄幕を捉えていました。ケンカは町優勢のうちに展開されましたが、宇高が町の左棒を一本折ったところでさっさと引き揚げてしまいました。町は八旛神社境内で本郷から棒を借りて修復しようとしましたがサイズが合わず、山端から借りて修復しました。一昔前なら考えられない協力体制ですが、このように垣生の3台の太鼓台は急速に関係改善を行ってきました。町と宇高の両太鼓台は当日午後の運行を自粛した後、3日目の運行も危惧されましたが何とか山端入りと宮入りだけは出来ました。

 

●この年は、2日目の上部山根グランドで池田北内の対戦もありました。日程が統一されていなかった昔から、川東祭りは天候と戦況の占いなどと言われていたようですが、本当に良く当るものであると感心します。悲しいことに、川東の2日目多喜浜駅前統一行動の後、又野太鼓台に死亡事故が発生しました。舁き夫が車輪に轢かれたのです。昭和58年の復活以来一度たりともケンカはおろか小競り合いにも顔を出さない真面目な運行をしていた太鼓台だっただけに皮肉なものです。

 

●3日目の八旛さんの境内も少し荒れ模様でした。八旛さんの境内でありながら多喜浜の太鼓台がいさかうのです。宮入りの途中で早くも新田東浜が棒を向け合い、全部が揃った後でも東浜阿島と向い合いました。これには東浜危うしとみた白浜が応援態勢に入れば、楠崎も準備するなどしました。多喜浜地区オールスターキャスト総出演でしたが、結局ケンカは起こりませんでした。

 

1988

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(天気表出典goo松山の過去の天気)

 

 

(010823令和上梓)
(010827
天気加筆)
(020718
令和上梓)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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