昭和38年 13(日)14(月)15(火) 小学2年 ●本郷太鼓台は昭和38年に上水引と高欄幕を新調しました。あの山下八郎氏作の神功皇后三韓征伐の図柄の幕です。新調の折には金の糸の輝きが眩しくて、特に皇后の乗った御座船の図の紫色が鮮烈でした。天幕は赤白市松で、手旗は紫、括りの巻きは黄緑色、何と言っても黒法被がとてもカッコ良かったです。布団締めは後年(昭和44年)新調しますが、それまでの布団締めは厚みが薄く何かふすぼっていました。それでも他所の太鼓台がオンボロ太鼓であったためか本郷太鼓台は皆の憧れの的でした。 ●この年の八幡祭りの模様は西園寺穂純の父親がその模様をカラー写真に収めていますので、その様子が手に取るように分かります。写真集昭和38年特別を参照してください。それによりますと、町と山端、山端と澤津、澤津と楠崎がそれぞれ向き合っています。 ●実はこの年、私は父親に連れられて「川西祭り」を見学しています。授業が終わった土曜日の午後です。この年の川西祭りは、17(木)、18(金)、19(土)の日程で開催されているはずですが、最終日の午後一宮神社近くで撮影した写真があります。境内では今にも雨が降りそうな天候の中を2台対2台の計4台の太鼓台が対峙していて、
雨より先にカメラのフラッシュの嵐が降り注いだのを鮮明に覚えています。
昭和39年 13(火)14(水)15(木) 小学3年 東京五輪 ●この年生まれて初めて本格的なケンカを目のあたりにしました。3日目の八旛神社宮入りの後、県道の辺りが騒がしかったので行ってみるとそこでは、本郷・山端連合軍と町との2対1の戦いが展開されていました。
戦況は町が苦戦していて、本郷・山端の2台の太鼓台は県道を行ったり来たりしていましたが、町は今の木村チェーンの付近の農道に追い込まれ、 町の高欄の金属棒はぐにゃっと折れ曲っていました。それでも町は太鼓を九重に上げてまで応戦しましたが、戦況に変化はありませんでした。青年団員がバイクに二人乗りして「こらっ、澤津は来んかい!町っちゃコテンパにやられよんのに!」と帰落中の澤津太鼓台を呼びに行きましたが、澤津の車は一瞬だけ止まったものの参戦はしませんでした。 ●この年、15(木)16(金)17(土)の日程で開催されていた「中萩祭り」を母親に連れて行ってもらって見学しました。授業が終わった土曜日の午後です。萩生の萩岡神社の小高い山に登って宮入りする姿は何とも印象的でした。細道の石段、進行方向右手は地山、左手は崖、少しでも傾いたらと思うとぞっとしましたが凄い技術で登ります。踊り場を返すとここからが本番、本殿前広場までには急な石段の大難所です。平地の祭りしか知らなかった私には結構な衝撃でした。太鼓台の飾り幕も結構新しく、川東の太鼓台よりサラじゃと思ったことを覚えています。この時、子供太鼓台も初めて目にしました。萩岡神社に来ていたので萩生東子供太鼓台だったのだろうと思います。縫い金糸の本格的な飾りで実に堂々としており、ベニヤ板に金紙銀紙の子供太鼓台しか知らなかった私はここで衝撃第二弾を食らったのでした。
(天気表出典goo松山の過去の天気) (010823令和上梓) |